御由緒 - 寶生の発祥

明治45年(1912年)7月30日。
御教祖山本亀一やまもとかめいち様の身体に、突如として元無極体天御中主国常立之尊産土之大御神げんむきょくたいあめのみなかぬしくにとこだちのみことうぶどのおおみかみの御神霊が御降臨されました。
これが、本教の発祥です。この日は、明治天皇が崩御された日でした。

明治45年
7月20日
明治天皇のご不例を知らせるニュースが、日本中をかけめぐりました。
明治45年
7月28日
御教祖の体に御霊動ごれいどうが起きたと伝えられています
明治45年
7月30日
御教祖は突然、「天皇陛下が亡くなられた」「汝、世に出よ」と叫ばれました。

天皇がお隠れになると同時に、大神様の御神霊が御教祖の身体に乗り移られました。
天皇の崩御を知らせるとともに、

汝、世に出よ。
明治天皇亡き後、日本は麻の乱れたような国になるであろう。
もう一度しっかり明治の御代の状態を持ち続けよ。

と御神命を授けられたのです。

御由緒 - 寶生の教え

以来、寶生教は、日本古来の神道の精神性を受け継いでいます。
「天祖中心祖先之教」「身太気神自之教」の二大教憲を大神様の御心と教えの中心に据え、
日本国家の発展、皇室家のご安泰、世界平和、信徒各家の成立繁栄を念願としています。
寶生教は昨今、失われつつある神の子としての日本人の心の美しさを世に広めようと、日々、布教に邁進しています。

奉斎主神

元無極体天御中主国常立之尊産土之大御神げんむきょくたいあめのみなかぬしくにとこだちのみことうぶどのおおみかみ

この大神様は、
元無極体主之尊げんむきょくたいぬしのみこと天御中主之尊あめのみなかぬしのみこと国常立之尊くにとこだちのみことの三柱を併せて奉斎、
元無極体天御中主国常立之尊産土之大御神げんむきょくたいあめのみなかぬしくにとこだちのみことうぶどのおおみかみと称え仰ぐべし」
という御教祖の受けられた御神勅によるものです。

御教祖の紹介

御教祖 山本亀一様

明治元年(1868年)4月21日。
山梨県榮村内船区小字八津(現、山梨県南巨摩郡南部町内船)にて、山本徳平氏、りさ氏の長男として生を受ける。(山本家の祖先は、藤原家を源流とし、文治元年(1185年)、この地に地頭職として赴任した「八津多聞左エ門藤原時種やつたもんざえもんふじわらのときたね」と伝えられている)

明治17年(1885年)(17歳)
和歌を通して社会勉強をするため、京都にて花本十一世不識庵先生のもとで和歌を学ぶ。
地元の内船に帰られた後、学んだ知識を活かし、私財を投げ出して村の中に直線の通りをいくつも造った。

明治20年(1888年)(20歳)
後に御教母となる、木内よね様(明治2年8月15日生)とご結婚。
9人の子どもに恵まれる。

御教祖のエピソード

未来を見通す力

御神命を受けられる前の御教祖は、農業を生業とされていました。生来、霊感が強く、そのころから「あなたの身体はここが悪い」と言い当てることが、たびたびありました。未来を見通す力も持っておられ、通りがかりの村人に「こうなさっては、いかがですか」と進言したり、相手の患部に手を乗せたり、手でさすったりすると、不思議に病気が治りました。子どもたちからは、「ありがたい不思議なお父さん」と慕われていました。

伊豆への旅

明治天皇の崩御と同時に神がかりになられた御教祖は、まず伊豆の伊東、下田へと足を運ばれました。山梨県南部町内船から東伊豆までを、一晩で移動されたというエピソードが残されています。距離にして百数十キロを徒歩でというから、まさに神がかりというほかありません。そして、その地で杖を突き立てると、「ここに温泉が出る」とおっしゃいました。その言葉通り、国道脇に温泉が湧き出たのだそうです。

布教への歩み

その後、御教祖は地元の八幡神社の神官、山本富五郎氏の紹介で御嶽教大嶽山教会長、長田勇二郎氏に労を取ってもらい、大正元年10月15日、御嶽教の教師の拝命を受けました。そして、大神様のお導きにより山梨県甲府市大田町に一軒の家を借り、御嶽神自教会―神自ら教える教会―として本格的に布教の道を歩み始められました。(「寶生大教会大阪本部七十年の歩み」より抜粋)