御教祖―山本亀一(やまもとかめいち)様
明治元年(1868年)4月21日。
山梨県榮村内船区小字八津(現、山梨県南巨摩郡南部町内船)にて、山本徳平氏、りさ氏の長男として生を受ける。
(山本家の祖先は、藤原家を源流とし、文治元年(1185年)、この地に地頭職として赴任した「八津多聞左エ門藤原時種(やつたもんざえもんふじわらのときたね)」と伝えられている)
明治17年(1885年)(17歳)
和歌を通して社会勉強をするため、京都にて花本十一世不識庵先生のもとで和歌を学ぶ。
地元の内船に帰られた後、学んだ知識を活かし、私財を投げ出して村の中に直線の通りをいくつも造った。
明治20年(1888年)(20歳)
後に御教母となる、木内よね様(明治2年8月15日生)とご結婚。
9人の子どもに恵まれる。
御神命を受けられる前の御教祖は、農業を生業とされていました。
生来、霊感が強く、そのころから「あなたの身体はここが悪い」と言い当てることが、たびたびありました。
未来を見通す力も持っておられ、通りがかりの村人に「こうなさっては、いかがですか」と進言したり、相手の患部に手を乗せたり、手でさすったりすると、不思議に病気が治りました。
子どもたちからは、「ありがたい不思議なお父さん」と慕われていました。
明治天皇の崩御と同時に神がかりになられた御教祖は、まず伊豆の伊東、下田へと足を運ばれました。
山梨県南部町内船から東伊豆までを、一晩で移動されたというエピソードが残されています。
距離にして百数十キロを徒歩でというから、まさに神がかりというほかありません。
そして、その地で杖を突き立てると、「ここに温泉が出る」とおっしゃいました。
その言葉通り、国道脇に温泉が湧き出たのだそうです。
その後、御教祖は地元の八幡神社の神官、山本富五郎氏の紹介で御嶽教大嶽山教会長、長田勇二郎氏に労を取ってもらい、大正元年10月15日、御嶽教の教師の拝命を受けました。
そして、大神様のお導きにより山梨県甲府市大田町に一軒の家を借り、御嶽神自教会―神自ら教える教会―として本格的に布教の道を歩み始められました。
(「寳生大教会大阪本部七十年の歩み」より抜粋)